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ワレラン3世・ド・リュクサンブール (リニー伯) : ウィキペディア日本語版
ワレラン3世・ド・リュクサンブール (リニー伯)[われらん3せいどりゅくさんぶーる]

ワレラン3世・ド・リュクサンブールWaléran III de Luxembourg(-Ligny)1357年頃 - 1415年4月15日 イヴォワ城、)は、フランスの貴族、軍人。サン=ポル伯、リニー伯、およびの領主(1371年 - 1415年)。サン=ポル伯およびリニー伯ギーとその妻マオー・ド・シャティヨンの間の長男。
父の戦死後、フランス王シャルル5世に仕えて百年戦争に従軍したが、敵のイングランド軍の捕虜となって渡英した。虜囚中の1380年、初代ケント伯爵トマス・ホランドジョーン・オブ・ケントの間の次女モード・ホランド(1392年没)とウィンザーにおいて結婚した。モードはイングランド王リチャード2世の異父姉にあたる。伯爵夫妻の一人娘ジャンヌ(1407年没)は、ブラバント公アントワーヌと結婚した。モードと死別後、ワレランは1393年にバル公ロベール1世の娘ボンヌ(1400年没)と再婚したが、間に子供は授からなかった。
1396年、シャルル6世に王女イザベルと義理の弟のイングランド王リチャード2世の結婚交渉を命じられた。その功績によりジェノヴァ総督に任命されている。やがてシャルル6世が精神を病むと、ワレランはブルゴーニュ公ジャン・サン・プールの忠実な支持者となった。1402年に水利・林業長官(''Grand Maître des eaux et forêts'')に、1410年にパリ軍事総督および王の酒杯係(''Bouteillier de France'')に、さらに1412年にはに任命された。彼はパリで民兵部隊を組織し、ノルマンディーアルマニャック派の軍勢と戦った。1413年、ワレランらのブルゴーニュ派はパリからの退却を余儀なくされた。
ワレランはその後まもなく死去し、サン=ポル伯領およびリニー伯領は外孫のフィリップ・ド・サン=ポルが相続した。
== 子女 ==
最初の妻モード・ホランドとの間に娘を1人もうけた。
*ジャンヌ(1407年没) - 1402年、ブラバント公アントワーヌと結婚
また、2人の庶子をもうけた。
*ジャン(1466年没) - オーブールダン領主
*シモン(生没年不明)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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